八幡神社
はちまんじんじゃ
住所 | 〒795-0025 愛媛県大洲市阿蔵甲1844 |
電話番号 | 0893-23-4184 |
FAX | |
HP | http://ozu8man.or.jp |

由緒・由来
創建は聖武天皇の御代、天平年中(729~749年)と伝えられています。伊予の国喜多の郡矢野の郷なる「矢野の神山」(神社古文書では出石寺山であろうとしている)に鎮座されていらっしゃったのを、鎌倉時代に現在の地にお遷ししたといわれています。
土御門天皇の御代(1196~1231年)、伊予の守護職であった梶原景時は、喜多一郡を敷地と定め、当社に150貫の地を寄進し流鏑馬を行い、春秋の祭りを厳かに執り行いました。
その後、戦国期になるとこの地の社寺は荒廃し当社も一時的に衰えますが、文禄3年(1594年)に大洲領主となった藤堂高虎公は、「古例ヲ興シ、祭リノ神業昔ノ例ニ仕フマツレ」(豫州喜多郡鎮座之記)と一群に厳命。当社においても、その荒れ果てた様子を憂い、神殿祭祀をことごとく古に復して、神領を奉り、春秋の祭りを復興させました。崇敬の念篤い高虎公は、慶長13年(1608)に伊勢国津藩に転封になった後も、当社の春秋の祭には代参を遣わせるほどでした。
その後、元和3年(1617年)に加藤貞泰公が藩主となって後は、大洲6万石の総鎮守「八幡宮」として社費一切は藩費をもって賄われ、神宝を献じ社殿を造営するなど、特別の崇敬を受けました。当社拝殿の扁額にある「八幡宮」の文字は、加藤家と縁戚関係にあった老中松平定信公の揮毫によるものです。
現在の社殿は、慶安元年(1648年)に社殿が火災に遭い、神宝等ことごとく焼失したため、50年後の元禄11年(1698年)、藩主加藤泰恒公により建てられたものです。このような規模で三殿(御殿・中殿・拝殿)が随神門(神門)と正しく並び、桧皮葺き(現在は銅板葺き)であったのは当時県内では当社のみで、社殿としては関西でも有数の規模とうたわれました。
言い伝えによると、三殿のうち、本殿の造営費は大洲藩主が拠出し、中殿は御家来衆が、そして拝殿は大洲領民が寄進し造営されたといわれています。まさに、地位身分を超え、大洲に住むすべての人々の力によって建てられたお社だといえます。本殿及び棟札は大洲市の重要文化財に指定されています。
※八幡神社様HP 由緒・歴史より