神社Q&A
神社にまつわるささいな疑問・質問を集めてみました。
- Q願い事を絵馬に書くのはどうして?
- A
「合格できますように・・・」「○○君と両思いになれますように・・・」こうしたお願い事を書いて神社に奉納する小さな板を「絵馬」と呼びます。それでは、なぜ「絵馬」にお願い事を書くのでしょうか?
古代には、馬は神聖視されていました。やがて、お願い事をするときに生きた馬を神さまに捧げる風習を生むようになります。
しかし、お願いごと事をかなえてほしくても、全ての人が馬を献上できるわけではありません。したがって、生きた馬に代わるものとして土製や木製の馬形像を献上して諸祈願する風習が生まれました。
神さまに献上しやすくなったといっても、馬形を作ることができない人々も多くいました。こうした人々の間から、馬の姿を絵に描いて奉納する「絵馬」という祈願方法が生まれたとされています。
現代では、馬の絵を書かない絵馬も沢山ありますが、「絵馬」という名称の中に、古代の馬の神聖視と、生きた馬を献上して諸祈願をした歴史が隠れているのです。
- Qどうして柏手(かしわで)を打つの?
- A
「拍手」と書いて「かしわで」と読みます。通常、「拍手を打つ」といわれ、神さまを拝むとき手を打ち鳴らす行為を指しています。または開手とも呼ばれます。
「神さまを拝むとき、なぜ手を打ち鳴らすのか?」それは、簡単に言うと、神さまと出会えたことを喜び、神さまに敬意を表する意味でするのが「拍手を打つ」という行為だからです。
拍手のルーツは、有名な『魏志』倭人伝に記されています。同書は正式名を『三国志』魏書東夷伝倭人条。西晋(中国の王朝名。265年~316年)の陳寿が記した書物であり、このなかに「(倭人は)貴人に出会うと、手を叩きあわせて敬意を表わす」とあります。おそらく、貴い存在に対して手を打ち鳴らして敬意を表するという習慣が古来の日本列島にあって、その習慣が神道に取り入れられたのかもしれません。
ちなみに、神さまへの拝礼の仕方は世界中に沢山ありますが、手を打ち鳴らして拝礼するのは、日本だけだそうです。
- Q拍手の正しい打ち方って?
- A
神社で実際に拍手を打つ時には、掌を合わせたとき、右手を左手の第一関節付近まで下げてから
打つようにしましょう。これは神道には、左手を「陽=霊」、右手を「陰=体(身)」とし、あくまで霊を主体とする考え方があるためです。つまり、右手を少し下げることによって霊を上位とするのです。手を打ち鳴らすときは、しっかり掌を張り、大きな動作でパチンパチンと打ちましょう。
拍手を打つのは2度が一般的ですが、神社によっては、独自の回数が定められている所もあります。たとえば、三重県伊勢市の伊勢神宮。ここでは「八度拝八開手」が作法となっています。やり方は読んで字のごとし。8回深々と頭を下げた後、8回拍手を打つやり方です。また、出雲大社(島根県大社町)や宇佐神宮(大分県宇佐市)では「四拍手」が作法です。
- Q厄落としってどうするの?
- A
厄落としの方法は地方によって色々ありますが、もっともポピュラーなのは、神社で厄落としのご祈祷を受けるという方法です。
時々どの神社に参拝したらよいものか?と悩んでいる方がいますが、氏神さま(その地域を守っている神さま)を祀る神社への参拝が基本です。ただ、神社によっては神職が常駐していないところもあるので、「神職に厄落としのご祈祷をしてもらいたい」という場合は、近隣の厄除け祈願をうたっている神社に参拝すればいいと思います。
- Q商売繁盛の有名な神さまって?
- A
兵庫の西宮神社や大阪の今宮戎神社で祀られているえびすさまは商売繁盛の神さまとして有名です。七福神の一柱としても親しまれている神さまです。
商売繁盛の神さまはえびすさまだけではありません。全国に2万社とも3万社とも言われるほど多くある稲荷神社で祀られているお稲荷さま(稲荷神)も商売繁盛の神さまです。お稲荷さまはもともと穀物・農業の神さまでしたが、やがて広く商売の神さまとして人々の信仰を集めるようになりました。
- Q有名なお祭りって何がありますか?
- A
都市部の大きな神社では、夏祭を例大祭としているところが多く、初夏の5月初めから7月の終わり頃にかけておこなわれます。目的は豊作祈願、疫病退散、除災招福、ご先祖供養など多岐に及んでいます。
浅草三社祭 浅草寺本堂の右手奥にある浅草神社の例大祭。日程は5月の第3日曜日を最終日とする4日間 祇園山笠 博多の総鎮守である櫛田神社に奉納される夏祭。7月1日~15日に行われます。 祇園祭 京都八坂神社の例大祭。7月1日~29日。 これらのお祭りでは、豪華なお神輿や山車が出ることが多く、大勢の観光客が詰めかけます。純粋なお祭りというよりも、都市の一大イベントとしての側面も強くあります。
ところで、春・夏・秋とお祭があるなら、当然に冬にもお祭りがあります。例えば、毎年1月14日におこなわれる新野の雪祭。これは長野県下伊那郡阿南町新野にある伊豆神社の例大祭です。仮面をつけた氏子が豊年を祝って舞を披露するお祭りとして、全国的に有名です。また、愛知県北設楽郡の山間部一帯で、12月末から翌年にかけておこなわれる三河花祭も、冬のお祭りとして有名です。
- Qお宮参りのことを教えて!
- A
幼児の生存率が低かった昔は、人々は赤ちゃんが生まれると神さまにご加護を願い、すこやかな成長を祈りました。その為に行われたのがお宮参りです。これは現代でも、神社でおこなう最初の人生儀礼です。男児は誕生から31日目、女児は33日目に参拝するのが一般的です。
お宮参りは、氏神さま(住んでいる地域を守る神さま)を祀る神社に詣でるのが、本来のしきたりです。最近は、有名神社に参拝する傾向が強いのですが、お宮参りは、新たに氏子(氏神の守る土地に住む人)になったことを報告する意味もあるので、氏神さまへの参拝も合わせて行った方がよいでしょう。お宮参りの日、赤ちゃんは母方の実家が用意した宮参り用の晴れ着に身を包み、神社に出向きます。赤ちゃんを抱くのは、父方か母方の祖母の役割で、母親は抱きません。かつて、父親は不参加だったのですが、現在では父親同伴も多いようです。
また、地方によっては、神前で赤ちゃんをつねってわざと泣かせ、お参りに来たことを神さまに印象づけるための演出をします。
- Q七五三のことを教えて!
- A
お宮参りの次に神社でおこなわれる人生儀礼は七五三です。幼児の成長を祝う行事は、長い間、各地で独自に行われていましたが、このうち七五三は、主に都市部でおこなわれていた行事でした。これが神社のすすめや商人の宣伝などによって広まり、全国的行事として定着したようです。
今日では毎年11月15日が「七五三の日」となっています。神社参拝は男児が3歳と5歳。女児は3歳と7歳。晴れ着に身を包み、親とともに神社に参拝した後、千歳飴(縁起物の菓子)を買って帰るスタイルが一般的です。ただ、地方によっては、買い求めた千歳飴を近所に配った、
親戚・近隣の人を招いて祝いの膳を設けることもあります。
- Q厄年のことを教えて
- A
「人生のある年齢のときに災厄が襲う」という考え方は、平安時代、陰陽道の影響で生まれています。厄年は十二支占いを参考に算出されたため、12年に1度となっていて、年齢的には13,25,37,49,61,73,85,91歳となっていました。しかし、時代を経るにしたがい、年齢にも移動が生じています。たとえば、室町時代は、3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99歳を厄年としています。
今日の厄年は、
●男性=25歳、42歳、61歳
●女性=19歳、33歳、37歳
とされていて、男性の42歳、女性の33歳を大厄としている。平安・室町の頃に比べるとかなり減ったように見えますが、こうなったのは江戸時代に入ってからとされています。それではなぜ、江戸時代にこのような形になったのか?例えば、ごろ合わせ説。19は「重苦」、33は「散々」、42「死に」に通じるから厄年になったというものです。また、25歳での若者組脱退、42歳で村の神事を司る資格の取得など、江戸時代の農村社会を背景に考える説もあります。
- Qお正月の欠かせないしきたりって?
- A
お正月の準備には欠かせないアイテムである注連飾り、門松、鏡餅。「どうして飾るの?」と思う方もいるかもしれませんが、じつはそれぞれに大切な意味があります。
まず、お正月に門に立てる門松ですが、これは歳神さま(年神さまとも)と関係があります。歳神とは祖先の御霊のこと。元旦にやってきて、五穀豊穣と子孫繁栄を約束してくれる神さまです。じつは門松は、歳神さまにお出でいただくための目印であると同時に、歳神さまが宿るための依り代ともなるのです。古代は栗・楢など多様な木が使われていたようだが、鎌倉時代以降、松が一般化しました。恐らく「松」が「(歳神を)待つ」に通じるのと、常緑樹のため厳寒時にも色あざやかな点が一般化の要因だったのではないでしょうか。門松は門神柱、祝い松、拝み松、門ばやし、飾り松などと呼ばれることもあります。
注連飾りとは、注連縄で作られた飾りものを言います。注連縄とは、穢れ・不浄の侵入禁止のために張られる魔除けの縄を指します。注連縄飾りはつまり、歳神さまを迎えるにあたり、家を神聖な領域とするために張られます。
鏡餅は、家にやってきた歳神さまが宿るための特別なお餅です。したがって、鏡餅がないと歳神さまが宿る場所が家の中にないことになってしまいます。鏡餅はできるだけ派手に飾り立てるのが良いとされているので、昆布、橙や御幣などで飾りましょう。
- Q節分は神事だったって本当?
- A
立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分といいます。現在は立春の前日の節分、2月3日が特別に大きく扱われていて、家庭で、神社で、寺院で「鬼は外、福は内」という掛け声とともに煎った大豆が撒かれます。
じつはこの行事、日本の神事と中国の宮廷の儀式が合体してできたものです。
日本では昔から農耕との関係上、立春の前日の節分をとくに重んじていて、「春の初めには神が訪れて祝福を与えてくれる」という素朴な信仰が息づいていました。この節分の日にはいくつかの行事が行われていましたが、そのなかに米を撒いて魔を払う儀式と、豆占いがありました。豆占いとは炉端に焼いた大豆を並べて、その焼け具合によって、以後の天候を占う農耕のための占いです。豆占いも、米による魔除けも、節分という神が訪れる日だからこそおこなわれた儀式でした。
続いて、中国の儀式を見てみましょう。これは追儺の儀式といい、別名、鬼やらいと呼ばれるものです。鬼に扮装した者を桃の弓、葦の矢で追い払う儀式で、大晦日の夜におこなわれました。鬼は疫病・災難・天災など悪しきことの象徴。つまり「翌年は平穏なれ」という願いを込めておこなわれた儀式でした。
この追儺の儀式が日本に伝わったのが、7世紀の末ころ。最初、宮中でおこなわれていましたが、しだいに民間にも広がって行きました。そして、室町時代のころ、日本式節分が生まれます。
日本式節分誕生の詳細な理由は不明ですが、年に1度訪れる神さま、米を撒くことによる魔除け、大豆による豆占い、災難の象徴としての鬼の払い、という4点が合体した結果、生まれたのではないかと思われます。