深川神社

深川神社

ふかがわじんじゃ

住所〒489-0076
愛知県瀬戸市深川町11番地
電話番号0561-82-2764
FAX0561-82-2839
HPhttps://www.seto-fukagawashrine.com
No Image(神社情報)

由緒・由来

深川神社境内には、石室の中心が約4メートル四方の横穴式円墳がある。この古墳からの発掘物は現存していないが、石積みの方法から6世紀頃のものと推定されている。古墳の存在は、この場所が辺り一帯を治める長をお祀りしていた「聖域」であったことを示している。また、この地区は良質な陶土に恵まれていることから、土器等を作って生活する集団の中心的な場所であったと言われている。

奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。

室町時代、神仏習合しており、当神社にも他同様に神宮寺があった。この辺りは、特に社僧の力が強く、神社の社掌が中絶していた。当神社にも神宮寺があった遺物として、梵鐘・永享10年(1438)があり、瀬戸市の文化財に指定されている。

応仁の乱以降、京都を逃れてきた藤原家一門の公家であった守栄は、藤原系の縁を頼りに転々とし、瀬戸村に至り、天皇家に繋がる神を祀る深川天神にたどり着いた。当時、ちょうど社司が不在で、読み書きのできる人を必要としていたことから、この地に落ち着くことになった。

永禄年間(1560年代)の8代宮司・護弘の時、信長が、鷹狩の際に参拝した折、美濃の斉藤龍興の刺客に襲われそうになったが、護弘の機転で難を逃れ、その御礼に七十五石の供米を賜ったと事蹟がある。その後、慶長元年(1596)に、同じく8代・護弘のとき、天神ノ森より出火し全焼。この火災で残ったのは、狛犬の吽型と梵鐘のみであった。

尾張誌によると、「深川神社。瀬戸村にありて、今は、八王子の社ともうす。祭神は、五男三女の神なり」と、かつては、八王子社と呼ばれていた。現在の本殿は、文政元年(1818)8月から同6年(1823)12月にかけて15代宮司・守恒のときに建設された。本殿は、諏訪の名匠立川流の立川和四郎富昌(1782~1856)の作で、優美な彫刻が施され、瀬戸市指定文化財になっている。

また、文政7年(1824)には、陶祖・藤四郎の偉業を称えお祀りする陶彦(すえひこ)社が創建された。現在の陶彦社は、大正15年(1926)、21代宮司・武のときに遷宮が行なわれたもので、設計は、宮内庁に勤め正倉院などを手掛けてきた伊藤平二による。斬新で洗練されたデザインの貴重な建造物である。平成12年(2000)より、73年ぶりに深川神社と陶彦社社殿の修復工事を行い、平成14年(2002)10月に竣工奉祝祭を納め現在に至る。

※深川神社様HP 神社の創建と歴史背景より

詳細MAP

タイトルとURLをコピーしました