大垣八幡神社
おおがきはちまんじんじゃ
住所 | 〒503-0908 岐阜県大垣市西外側町1-1 |
電話番号 | 0584-78-4977 |
FAX | |
HP | http://ogaki80003.or.jp |

由緒・由来
天平勝宝元年(749年)より、大井荘(現 大垣市)は奈良県は東大寺の荘園であった。これにより、後醍醐天皇の御世、建武元年(1334年)南都梨原宮(東大寺鎮守の八幡宮也)を手向山八幡宮より当国安八郡大井荘藤江村に勧誘した(現 大垣市藤江町)。その後、宝徳3年6月(1451年)遮那院条済が現在の大垣市外側町の地に遷座し、遮那院代々別当職となり大垣町及び近傍十八郷(大井荘十八郷)の総社と称した(この大井荘十八郷は往古南都東大寺の寺領となりし縁故 によるものである)。
天文15年(1546年)には、斎藤道三の兵火により全焼するも、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて、神宝云々の記述が見られる事から、程無く再建されたのであろう。その後、慶長11年(1606年)大垣城主 石川康道政俊の刀奉納、同13年(1608年)幣殿、拝殿、舞殿が建てられる。
慶安元年(1648年)大垣藩初代藩主 戸田氏鉄公により再建整備が行われるなど、江戸時代徳川幕府も往古の神威社格を崇め、朱印をもって社領を附し、大垣城主も代々深く崇敬して社殿の営繕をはじめ寄進献納などの敬事数多 を数え、江戸時代を通じて厚く信仰されてきた(その神徳を証する、後陽成天皇の神号軸、藤原行成筆の神号額、大垣城主奉納の神鏡、梶川英盛が寛文年間に記せる八幡神社縁起、その他古文書及び刀剣数口の神宝を所蔵していたが、 昭和20年7月大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により焼失)。
明治に入ると、明治新政府より神仏分離令が出され、慶応4年4月から明治元年12月(共に1868年)にかけて全国で分離が行われる(当八幡神社も遮那院を分離)。 その後も、広く大垣市民の崇敬を集めるも、昭和20年7月(1945年)に、大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により、社殿が焼失した。 消失した社殿等は氏子氏の熱誠により、同26年(1951年)本殿復興。同29年(1954年)拝殿復興。同30年(1955年)社務所復興、現在に至る。
※大垣八幡神社様HP 由緒より