気多神社
きたじんじゃ
住所 | 〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1丁目10-1 |
電話番号 | 0766-44-1836 |
FAX | |
HP | https://ketaweb.net |

由緒・由来
古の頃、出雲の國と高志の國は海流に乗り交流していました。出雲の民が能登に渡り半島沿いに来てこの地に住み着き、氣多の神を祀る小祠を建てたと云われています。
社伝によると養老元年(717年) 元正天皇の御代に勅願されたと記され、越中國から能登國が分離した頃、その神威を高めるために改めて能登から分霊を勧請し、氣多神社として再興されたと記しています。そして国守の崇敬社として越中國総社となり、後に越中國一宮となりました。『延喜式神名帳』の最古の写本『九条家本』には、越中國34社のうち氣多神社を名神大社として記されています。
また聖武天皇の詔によりこの地にも国分寺が建立されましたが、空海が東大寺の別当となり真言院を設立すると、東大寺を総本山とする越中國国分寺も真言院へと変容し、「得照寺」「法土寺」「国分堂」「一過寺」「坊の上」など、49坊の堂塔伽藍が立ち並び、神仏混淆により氣多神社の社寺は神宮寺となりました。
しかし、寿永の末(1184年)に木曾義仲の兵火により社寺は悉く焼失し、その後に再建されましたが、天文年間(1532~1555年)越中争乱時期に上杉氏の兵火により、一社一宇(愛染堂)を残し再び灰燼に帰しました。その後に宥應なる人が僅かに法燈を守り、愛染堂を慶高寺の名のもとに神宮寺としての氣多神社を護持してきました。そして永禄年間(1558~1570年)に社殿が再建されましたが、江戸期の正保二年(1645年)加賀前田家三代 前田利常は殊更に本社を崇敬し、荒廃していた本殿・拝殿等を再築しました。それ以来、神社の維持は全て藩費にて成されていました。
しかし、明治維新による神仏分離令や版籍奉還により、加賀藩からの庇護は失われ社運は衰微に向かいます。その窮状に際し、明治24年(1891年)勝興寺連枝土山澤映や伏木湊の北前船廻船問屋など56名の有志により、氣多神社永続資金が供せられ、境内社域保持がなされ今日に至っています。
※気多神社様HP 由緒より