開成山大神宮

開成山大神宮

かいせいざんだいじんぐう

住所〒963-8851
福島県郡山市開成三丁目一番三十八号
電話番号024-932-1521
FAX024-939-4410
HPhttps://www.kaiseizan.jp
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由緒・由来

御鎮座地開成山は、「水と緑のきらめく未来都市」として躍進する郡山市の中央に位置し、国道四十九号線を始め四通八達し、深い緑におおわれた神苑が広大な桜の名所開成山公園を前景とし、周囲には郡山市庁舎・総合体育館・郡山市総合教育支援センター・郡山女子大学・開成館・安積疏水土地改良区事務所と記念館がそれぞれ偉容を誇り、行政・文化・教育の中心として、 日に日に発展を続けております。

しかし、江戸時代までは一里四方六百町歩(百八十万坪)の大槻原(後の桑野村)といわれた荒れ果てた広々とした原野で、明治五年六月に権令として赴任し、十月に県令(県知事)となった安場保和氏が、維新政府の基本方針である殖産興業(生産をふやし産業を盛んにすること)の一環としての、拓地植民(荒野を開墾して人々を移住させる)・士族授産(職を失った士族救済の政策)の計画をたて、中條政恒氏を典事に登用して開墾を担当させることにし、明治六年三月に県官の石井貞廉・加藤邦憲・安藤政輝の各氏と共に安積郡に派遣しました。

中條氏は郡山村の商人で資産家である阿部茂兵衛氏に、この開墾が地域に利益をもたらす事業であることを説明して協力を求めました。阿部氏はこれを快諾し、二十四名の賛同者の出資による会社を設立し、「開成社」と名付けました。開成社は開物成務(人々の知識を開発し、事業を完成させること)の文字の意味からとったものです。

このようにして明治六年四月に工事に着手いたしましたが、大槻原を中心とする安積郡は、江戸時代には二本松藩の所領で、郡山組・大槻組・片平組の三代官所を置いて統治しておりましたが、各組間を融和させることは極めて困難な状態でした。それに加えて、大槻原は郡山村・小原田村・大槻村・富田村に囲まれた入会地(原野を共同で利用し、家畜の飼料の草や燃料とする雑木を採集するところ)で、その取り合いのため常に紛争が絶えませんでした。更に、士族授産によって農民となった二本松藩の士族と、近村の農家の次男・三男等が入植しましたので、人心の融和統一こそがこの事業を成功させるための最善の方策と考え、中條氏は敬神愛国の道を説きました。たまたま明治六年は国民の祝祭日として「神武天皇祭」が四月三日、「天長節」(天皇誕生日を祝う日)が十一月三日に制定された年なので、「離れ森」といわれていた眺望絶佳の小高い丘を「開成山」と名付け、その山上にお祭り広場としての遥拝所を設け、それを中心に一大遊園地を造り新村の意気を発揚させる計画を進めました。十一月三日の最初の天長節、そして次の年の神武天皇祭と明治八年までの春秋二回の遥拝式は、安積郡内三十六ヵ村が参加して、三日間に亘り六万人の人出で賑わいその目的を達成したのであります。

※開成山大神宮様HP 御由緒より

詳細MAP

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