中部地方 生出神社 当社の起源は人皇第四二代文武天皇大宝三年、生出山の山嶺に夜々光を放つものあり、里人之を不思議なこととなし登山して其の光を尋ねるに、小岩の表裏に登龍の形あり。時に突然異様な翁あらはれ、「此の石を神宝として諏訪大神を斎奉すれば、必ずや里人に安奉に守護されん」と言傳へると共に其の姿が消えたので、こゝの小池際に社殿を造営、八月一日奉祀する。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 小室浅間神社 富士山から流れ来た剣丸尾溶岩流の突端に御鎮座する当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の勅命による駿河国富士郡大宮の宮建ての後に、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)甲斐国は都留郡古吉田の森の地(現在の下吉田東町辺り)に草創したと伝えられる。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 冨士山小御嶽神社 小御嶽は富士山より先に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山です。その小御嶽の山頂で山岳信仰の霊地である富士山五合目に承平7年(937)に鎮座、創建されたのが冨士山小御嶽神社です。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 若宮八幡宮 当社の鎮まる韮崎はかつて河原部村(かわらべむら)といい、甲州街道の宿駅でした。信州高遠や伊那方面からの伝馬、中馬による穀物や駿州岩渕からの富士川舟運による海産物の取引中継の町としてにぎわっていました。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 大井俣窪八幡神社 大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡)は、清和天皇の勅願により貞観元年(859年)2月23日、宇佐神宮(大分県)の八幡三神を音取川(ねとりがわ、今の笛吹川)の中島の地へ勧請し、その地を大井俣といったことから神社の名称を大井俣大明神と称しました。その後、何回か水害で流されて現在の窪の地へ遷座して窪八幡宮となりました。創建当時の建物の規模は不明ですが、現在の社殿は室町初期から末期にかけて再建されたものです。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 稲積神社 今から約2,080年前、上古時代湖沼地帯であった甲府盆地を第十代崇神天皇の御代四道将軍武淳川別命東征の折、御入国があり、湖岸を切り開き湖水を富士川に落として涸燥して、田圃を造り蒼生愛撫、五穀豊穣、祈願のため、丸山に奉斎したと伝えられる(丸山は今の舞鶴城址)甲斐源氏の祖、一条次郎忠頼丸山に館するに当り、庄城稲荷と呼ばれ氏神として甲斐源氏一条忠頼一族の崇敬する所となっていたが文録年中浅野長政の築城に当り一蓮寺と共に現地に遷された。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 新屋山神社 新屋山神社は、戦国の室町時代後期、後奈良天皇の御時天文3年(西暦1534年)10月17日の創建にして、1727年修復、1890年(明治23年)に弊殿、拝殿の造営、1934年(昭和9年)10月17日に本殿を再建し、末社浅間社 大神社を合祀する。1973年(昭和48年)に弊殿、拝殿を改築し、社務所を設置して現在に至る。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 浅間神社 第十一代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第五十六代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治4年5月14日国幣中社に列格。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 金桜神社 甲府の名勝、昇仙峡を登りつめた地に鎮座する金峰山を御神体とした神社です。第十代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疫病が蔓延した折、諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をし、甲斐の国においては金峰山山頂に御祭神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ったのが当社の起源となります。 2024.12.20 中部地方山梨県