岡山県

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今村宮

当宮は建武元年(1334)の創建で、岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。天照大御神、八幡大神、春日大神の三神を奉祀したので、「三社明神」または、「三社宮」と称し、約250年にわたり、岡山市の中心部の産土神として崇敬された。
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岡山縣護国神社

岡山縣護國神社(おかやまけんごこくじんじゃ)は備前藩主 池田 章政(いけだ あきまさ)公が、明治2年4月3日御後園(後楽園)裏竹田河原に於いて、戊辰の役戦死者34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者55柱を祭祀されたのを起源とし、全国各地にある護國神社の多くは、明治2年東京招魂社(靖國神社)が創建されたのに併せ「招魂社(しょうこんしゃ)」が建てられ、後にごこく神社と改称されました。
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小島神社

本神社は小島神社に八幡雄島宮を合祀し、通称鬼道様あるいは鬼道八幡と呼ばれています。小島神社は備前国総社神名帳に記載されている古社128社の一社で、興国4年(1343)神名帳に大井手神と記載されたこともあります。昔、西大川が国富村の方へ流れていた頃、川の中央に小島あり、そこに鎮座していたので(一時、浮洲宮と呼ばれて頃もありました)小島神社と呼ばれています。
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御崎宮

当社は吉備温故によると出雲国日御碕神社から勧請したという。創立年代は明らかではないが、御野の産土神として古くから崇敬せられ、明治6年郷社に列した。元は上道郡竹田地内(現在の岡山市中島)に鎮座していたが、天正年間宇喜多秀家が岡山城城下に引水するため、社地が川敷きになるので現在地に御遷宮された。社殿は嘉永10年に再建した権現造りで、随神門は天保年間の再建である。
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内宮

当社の御祭神である天照大神は、かつて皇居の内にまつられていたが、やがて第10代崇神天皇の御代に皇居と神居とが別けられることになり、まず倭の笠縫邑に遷しまつられた。その後、丹波国(京都)、倭国(奈良)、木国(和歌山)、吉備国(岡山)を経て再び倭国へ、そしてさらに伊賀国(三重)、淡海国(滋賀)、美濃国(岐阜)、尾張国(愛知)を経て第11代垂仁天皇26年(紀元前4年)に伊勢国(三重)へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地として鎮座された。
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伊勢神社

当社は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命が御創建になり、元伊勢として二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上った。
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石門別神社

当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。
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備中国総社宮

総社宮の創建は不明です。平安時代末期、国司が赴任してきた際、備中国中すべての神社の巡拝を行っていました。しかし、巡拝の手間を省く為、国府の近くに備中国内三百二十四社の神社を勧請し、お祀りしました。
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岡山神社

当社は清和天皇貞観年中(八六〇)の創建で、岡山という現在の岡山城本丸の地に鎮座しており、「坂下(さかおり)の社」と呼ばれていた。永禄年中(一五五八-一五七〇)に「岡山大明神」と改め、天正元年(一五七三)岡山に入城した宇喜多直家が岡山城を築くにあたり、現在の社地に遷し岡山城の守護神として社領(神社の土地)を寄附。直家の子、秀家が本殿を、その後の城主小早川秀秋が拝殿以下を造営した。
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徳守神社

当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の創祀と伝えられている。社地は当初現在の津山市小田中の地にあったが、天文8年(1539)火災に遭い社殿 宝物等悉く焼失した。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国守大名として入封した森忠政公(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、翌9年(1604)現在地に移して津山城下の総鎮守とした。
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