岡山県

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閑谷神社

本神社は、備前藩主池田光政公が寛文年間学校を興し、貞享3年その霊及び像を安置して芳烈祠(芳烈は光政公のおくりな)と称したのがの創建と伝えられている。
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久田神社

当社の江戸時代以前の由緒は不詳であるが、明治43年久田村当時に、土生の埴生神社(境外摂社山祇神社)、河内の河内神社、国司神社、黒木の黒木神社、八幡神社、廣武神社、久田下原の下原神社(境外摂社国司神社、豊国神社)、国司神社を久田上原の貴布祢神社へ合祀と同時に久田下原に移転し、社号を久田神社と改称、大正4年に久田下原大川上神社を合祀し、昭和22年宗教法人となり、神社本庁が包括する神社となって久田地区氏子の尊崇を集めたが、平成13年苫田ダム建設にあたり、氏子の大部分は久田から離れ、社殿も水没地にあたることから、現在地へ遷座した。
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総社

当社は、社記によると欽明天皇25年、大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)に祀ったのがはじまりと伝えられ、和銅6年(713)備前国から6郡を割いて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁された。
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作楽神社

当社は、鎌倉時代に美作の守護職(大名)の館(やかた)のあったところで、境内全体が国指定の史跡となっている(大正11年指定)。 元弘のむかし、第96代後醍醐天皇が時の執権北条高時のために隠岐に流される途中、この館にお泊まりになった。
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高野神社

当社は岡山県津山市二宮に鎮座する延喜式内社であります。今から約1500年前、安閑天皇2年(534年)に山川秀麗にして清浄な此の地を選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。御神威は年と共にお栄になり、早くから美作三大社の一社として、広く官民大衆の尊信するところとなったのであります。
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厄神社

当神社は、神速須佐之男命を奉斎し、56代清和天皇の貞観9年(867平安前期)8月備後の国鞆之津祇園宮から小林庄都羅之郷、宮之壇(現宮之浦)に勧請「薬神宮」と称した。その後土地開発により住民が連島山脈の南面に移住すると、第99代後亀山天皇の天授3年(1378南北朝)春日北朝の永和3年春日字小船(現西之浦)の地に奉遷し、「疫神宮」と改称した。
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箆取神社

当社の創建年代は不詳であるが、伝説によれば往古連島は都羅之郷と称し一孤島であり、第40代天武天皇の御代にあった壬申の乱の頃、鎮座地前面の海上に箆の御神紋が顕れた事に因り、箆取大権現と称した。
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福田神社

当社は、福田新田旧五箇村(北畝、中畝、南畝、松江、東塚)の地が、嘉永5年から開墾されたのにともない、その地区の産土神として勧請され、文久2年に社殿を造営し、明治4年に創建された。御祭神は、天照大神、倉稲魂命、大國主命の三柱を主祭神として奉斎し、相殿に綿津見神、御年神を併せ祀っている。
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春日神社

当社は第108代後水尾天皇の元和年中、この地に奈良春日神社から勧請した。 旧倉敷三大社の一つである。
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足高神社

足髙神社古文献によると、『往古、奥津島山(おきつしまやま)山頂に鎮座して、一山四方は海面であり、山下は格別の急流であった。往来の船は必ず帆を下げて航海の安全を祈願し、転覆を免れていたが、これを欠く時、船はたちまち転覆したと言い、この由緒を以て諸国に於いて「備中帆下げの宮」と称すと、古老の口碑に正しく言い伝へたり』とあります。
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