九州・沖縄地方

鹿児島

天之御中主神社(妙見神社)

天之御中主神社(妙見神社)は藩政時代には妙見廟として、薩摩の名社として伝えられおよそ八百年の昔(土御門天皇の御代)、正治年間(鎌倉時代の初期)薩摩の人々を苦しみより助け、福寿増益を計る為に紀州那智山よりお迎えしております。
鹿児島

大宮神社

国道328号沿線の入来町日之丸にある大宮神社は、中世以来入来院氏の総社となっています。この神社の例祭においては、入来独持の「入来神楽」を奏し、神舞を奉納しています。
鹿児島

霧島神宮

霧島神宮きりしまじんぐう住所〒899-4201鹿児島県霧島市霧島田口2608-5電話番号0995-57-0001FAXHP由緒・由来詳細MAP
鹿児島

新田神社

新田神社は神亀山(しんきさん)という亀の形をした小高い山の上にあります。まつられている神様は天皇様のご先祖にあたるニニギノミコト様を中心として、ミコト様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。
鹿児島

枚聞神社

860年従四位に位された大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)ほか8柱を祀っています。古くから交通・航海の安全や、漁業守護の神として人々の厚い信仰を集めてきました。薩摩一の宮といわれるように島津藩主の崇敬も厚く、本殿は県の重要文化財にも指定されています。
鹿児島

南洲神社

明治十年九月二十四日、城山の陥落によって西南の役は終結したが、戦後まもなく、南洲翁をはじめ戦没者の英霊を祀るべき祠を建てようという議が高まり、同十三年一月一日に至って神社の前身である参拝所が出来上がった。大正二年十月に社殿が竣工、当時はこれを南洲祠堂と呼んでいたが、大正十一年六月に南洲神社という社号が許された。
鹿児島

鹿児島神宮

鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代とも伝えらています。御祭神彦火火出見尊 (別名山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくられた。
鹿児島

照國神社

御祭神の島津斉彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。
鹿児島

揖宿神社

社記によれば、天智天皇が薩摩地方御臨幸の折り、当地の大杜に御滞興あらされた由緒の地として、慶雲3年酉午(西暦 706年)2月10日、賀茂縣主堀内氏、指宿氏の遠祖が勅を奉じて、天皇の神霊、遺器を奉斎して葛城宮がご創建されましたが、168年後の貞観16年甲午 (西暦874年)7月、長主山(現在の開聞岳)の大噴火があり、開聞九杜大明神(現在の枚聞神社)の葛城宮にご避難されたいとのご神託により同年11月遷 宮され当杜を[開聞新宮九杜大明神]と称され、爾来指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され、明治維新に際し「揖 宿神社」と改称され現在に至っております。
宮崎県

潮嶽神社

火闌降命 海幸 山幸の争の時、満潮に乗り磐船(頑丈な船)にてお着きになった。そこでこの地を潮嶽の里といい、ここに宮居をお立てになり、年久しくご統治されたと伝えられている。御鎮座は口碑によれば神武朝の頃と伝えられ、世々の領主、地頭、藩主、更には広く一般庶民により崇敬されたでである。また藩政時には社録が付され、毎年大祭には 太刀一口 並びに 幣帛が供せられた。
タイトルとURLをコピーしました