関東地方

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築土神社

築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。
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亀戸香取神社

当神社は天智天皇4年(665)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公が東国下向の際、この「亀の島」に船を寄せ、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因です。
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阿豆佐味天神社

阿豆佐味天神社は、砂川の新田開発の際に、村の鎮守の神として1629年(寛永6)に創建されました。ご祭神は、医薬・健康・知恵の神として名高い少彦名命(すくなひこなのみこと)文学・芸術の神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)のお二柱です。立川水天宮は、古来より安産・子授けの守り神として崇められています。安産のご祈祷・安産祝帯の授与は、いぬの日以外でも行っております。
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六郷神社

社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
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松陰神社

吉田松陰先生は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。
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穴守稲荷神社

社伝に云う 文化文政の頃 扇浦(現 羽田空港内)開墾の際 沿岸しばしば激浪のために害を被りたり或時堤壁に大穴を生じ これより海水侵入せんとす ここに於いて村民等相談り 堤上に一祠を勧請し祀る処稲荷大神を以てす これ実に当社の草創なり爾来神霊の神威灼然にして風浪の害なく五穀豊穣す その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり
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赤坂氷川神社

氷川の名称の由来は、出雲国 簸川(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、簸川の上流は御祭神 素盞嗚尊の「八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)」の舞台と伝えられております。当社の創祀は、天暦5年(951年)東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、この地に氷川明神の社殿を建てお祀りをしたことにはじまります。
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葛西神社

創建の年代は古く平安時代の末期、後鳥羽天皇の元暦二年(1185)領主葛西三郎清重の篤信により上葛西、下葛西あわせて三十三郷の総鎮守として下総国香取神宮の分霊をお祀りしたものです。当時この金町の地は、葛西御厨の神域にあり古来二十一年ごとに香取神宮宝殿造営の賦役をつとめた関係から、郷内の守護神としての働きもありました。
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世田谷八幡宮

世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天皇の寛治五年(1091)、当時朝廷より陸奥(奥州)守として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した、歴史上後三年の役(1087〜1094)の世である。
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天沼熊野神社

旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祭神としてを奉られています。創立は、神護景雲2年(768年)東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し別当を置いたのが始まりと伝えられています。また一説には、元弘3年(1333年)新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中にこの地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。
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