神奈川県

関東地方

寄木神社

寄木神社よりきじんじゃ住所〒254-0012神奈川県平塚市大神2746電話番号0463-55-0670FAXHP由緒・由来詳細MAP
関東地方

平塚八幡宮

平塚八幡宮は、仁徳天皇の御代68年(380年)、この地に大変大きな地震があり、人々の苦しむ様を見かねた仁徳天皇(第16代)が社を建てられたことが創祀とされています。
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鴨居八幡神社

治承4年源頼朝公鎌倉入りし、幕府の礎石を築くに当たり、三浦義澄、義盛は軍功あって後に荒次郎義澄三浦介となり当郡を領し義盛は侍所別当となり、三浦党の一族門葉最も栄えた時である。その頃多々良四郎義春は当郷鴨居の領主として武名も高く三浦家の柱石をなしていた。
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熊野神社

熊野神社くまのじんじゃ住所〒238-0316神奈川県横須賀市長井6ー16ー25電話番号046-857-7177FAX046-857-7177HP由緒・由来詳細MAP
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久里浜天神社

当社は、三浦半島に鎮座する88社の神社のうち、唯一学芸の神、菅原道眞公を主祭神としてお祀りする神社です。 この地は古くは入海【いりうみ】で葦原【あしはら】でした。 久里浜中央部を流れる 内川【うちかわ】 (今の平作川【ひらさくがわ】) 流域一帯に新田開発をするべく、江戸初期に 越前国【えちぜんのくに】 鯖江【さばえ】 出身で大阪にて身を立てた 砂村新左衛門【すなむらしんざえもん】(慶長6年辛丑かのとうし・1601年生誕~寛文7年丁未ひのとひつじ・1667年12月15日満66歳没) が、幕府の許しを得て開拓することになりました。
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大津諏訪神社

古来より「大津」はその名の示す通り、幕府の置かれた鎌倉や江戸に出入りする物資を中継する湊(みなと)として東京湾を臨む舟の渡し場の役割を担ってきたと思われます。この地は古代にあっては房総への渡津(としん)、中世には半島を跋扈(ばっこ)した三浦一族の衣笠の荘の配下、江戸時代は海の関所・浦賀への往還や海防のための陣屋が置かれ、明治時代以降は軍部横須賀の演習場や学校、関係施設が立ち並び、その一翼を担っていました。
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諏訪神社

当社の草創については社記に「正親町天皇の御宇天正元(1573)年3月12日信濃國諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝える。記録に明らかなところでは享和元(1801)年8月本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年に造営されたものである。
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春日神社

本社の鎮座地旧公郷は、藤原氏の荘園であった為、奈良の春日大社より分霊勧請したと伝えられる。古くは猿島に鎮座し、猿島他小島九ツを合せ十嶋故十嶋大明神とも称され、公郷一円の鎮守であった。猿島全島を境内とし、旧3月3日には藤原氏の奉幣使として、鎌倉の深沢村より梶原氏の一族である梅沢氏が参向し、田津の浜より艫の音勇ましく、関係者一同島に渡り神楽を奏し祭典を執行した。
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諏訪大神社

康暦2年(1380)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
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月読神社

天文3年9月29日皇太神宮の別宮を亀井城の卯の方に創立した。宝永5年9月29日、天保6年11月7日領主三井主税、安藤織部の両人の援助により再建した。大正7年7月11日上麻生の熊野神社、下麻生の日枝神社、山口谷の白山神社を合祀し、大正7年9月17日供進指定村社になる。昭和49年9月29日鉄骨コンクリート神明造りの社殿を新築する。
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