中部地方 須須神社 当社は高座宮(たかくらぐう)・金分宮(きんぶんぐう)の両社に御夫婦の大神を祀り、須須神社と称し「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社である。第十代崇神天皇(約2000年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座しました。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 金剱宮 古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 久麻加夫都阿良加志比古神社 当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 金沢神社 加賀藩11代藩主前田治脩(はるなが)が寛政6年(1794)に、兼六園の現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を御創建になった。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 石川護国神社 明治元年の戊辰の役において加賀藩の108名が戦死し、明治3年、卯辰山に招魂社が造営され、その戦没者のみたまを祀ったのが創まりです。以来、西南の役、日清日露の両戦役、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争までの英霊、44,929柱を合わせ祀ってあります。(第九師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀県出身の英霊約14,000柱を含む) 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 小松天満宮 加賀藩三代藩主前田利常公が小松城に穩居された時に、前田氏の氏神である北野天神を城北に当るこの地に社殿を造営して鎭祭されたのが小松天満宮です(明暦3年・1657)。東は靈峰白山を望み西は安宅の海岸に続く梯川の畔にあって今も厳かな風致を保っています。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 白山比咩神社 崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります。応神天皇(おうじんてんのう)28年(297)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷り(うつり)ましたが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するので、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座しました。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 気多大社 八世紀、九世紀の能登の氣多大神宮は、渤海と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中、佐渡、越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。仁明天皇承和元年(八三四)には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝二人が把笏せしめられる。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 安宅住吉神社 東に霊峰白山、西に荒海日本海、眼下に源平古戦場の梯川を見下す景勝の地、ここ加賀ノ国(石川県)安宅、二堂山(海抜15m)の頂に安宅住吉神社は御鎮座されています。 2024.12.18 中部地方石川県
中部地方 尾山神社 慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。 2024.12.18 中部地方石川県