福井県

中部地方

平泉寺白山神社

当社は養老元年(717)の泰澄大師による白山開山からほどなく、泰澄自身の手によって創建されました。当時は平泉や平清水(ひらしみず)と呼ばれていたことが知られています。
中部地方

大瀧神社

大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で明治元年まで正一位小白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領70余町、日野川以東の村落48ヶ村を氏子とする国内有数の大社であった。
中部地方

岡太神社

岡太神社は、越前市粟田部町19字大山3番地にあり、延喜式神明帳では旧今立郡十四座中では最も古い社である。当神社は 建角身神 大己貴命 国狭槌尊 の三柱を勧進し、当初「岡太の宮」と称し21代雄略天皇(456~479)以前に鎮座されたといわれている。
中部地方

柴田神社

天正十一年四月二十四日、北の庄城落城の後、その天守閣跡に石祠を建て勝家公の霊を祀り、当時の藩士が毎年四月の二十四日に祭祀を行ってきた。明治六年「祠」は神社格に列せられ、氏子、崇敬者を有するようになった。これが柴田神社の始まりである。
中部地方

常宮神社

氣比神宮の奥宮 地元では「お産のじょうぐうさん」と呼ばれ親しまれている神社。神功皇后が、ここで皇子の応神天皇を安産したことから、安産の神様として崇められています。神功皇后は、氣比神宮の祭神・仲哀天皇の妻であるため、常宮神社は氣比神宮と夫婦とされ、常宮神社は奥宮といわれています。
中部地方

佐佳枝廼社

当神社の由緒は、寛永5年(1628)、福井城内の天台宗万福山泉蔵院瑠璃光寺北に社殿を建立し、東照宮権現様(徳川家康公)をお祀りしたことに始まります。
中部地方

神明神社

社伝によれば、遠く越前国北庄三郷(現在の福井市中心部)は足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり)を献上する神領でありました。
中部地方

劒神社

劔神社の創祀は悠久の昔、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、〝劔大神〟と称えたことに始まります。神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いだことを社記は伝えています。
中部地方

若狭彦神社

小浜市下根来白石に鵜ノ瀬というところがある。遠敷川の清流が突き当たって淵をなしている巨巌の上に、先ずは若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝えられる。この南方 150mの所に創祀の社と伝えられる白石神社がある。その後、永久鎮座の地をもとめて若狭国内を巡歴された末、霊亀元年9月10日に竜前に若狭彦神社、6年後の養老5年2月10日に遠敷に若狭姫神社が鎮座、現在に至っている。
中部地方

木田神社

当社は、社伝によりますと、平安時代の貞観13年(一説に12 年)(871年)奈良興福寺領、木田荘(山奥・木田・花堂・板垣・下馬)の総社的存在として、御神託によって時の越前国主により尾張国(愛知県)津島神社(津島祇園社・旧国幣小社)より勧請したのがその創祀といわれています。
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