中国地方

岡山県

八幡宮

当社は御祭神の社記によると元和元年(1615)岡山城主池田忠雄が八幡村内の豊作と平安を祈念して造営した神社である。その後次第に衰微していたところ延宝4年(1676)時の岡山城主 池田綱政公が再興につとめ、まず山城国久世郡男山八幡宮(現在の石清水八幡宮)の分霊を勧請して遷宮し同時に社有地「6反8畝7歩外に竹林9反28歩」、社領「現米高60石」神饌料「5石」を下賜され、当時としては格別の厚遇で格式の高い大変権威のある神社となった。
岡山県

石高神社

当社の創立年月は不詳であるが、現存する神名帳で一番古い備前国総社神名帳綿抜本または総社本(863年頃)に石高神社と載っており、同山本本または八日市(938~947年頃)には正三位石高明神とある。平安時代の諸制度を編纂した延喜式(927)の神名帳には載っていないが、備前の式内、式外古社128社のうちの1社である。
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今村宮

当宮は建武元年(1334)の創建で、岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。天照大御神、八幡大神、春日大神の三神を奉祀したので、「三社明神」または、「三社宮」と称し、約250年にわたり、岡山市の中心部の産土神として崇敬された。
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岡山縣護国神社

岡山縣護國神社(おかやまけんごこくじんじゃ)は備前藩主 池田 章政(いけだ あきまさ)公が、明治2年4月3日御後園(後楽園)裏竹田河原に於いて、戊辰の役戦死者34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者55柱を祭祀されたのを起源とし、全国各地にある護國神社の多くは、明治2年東京招魂社(靖國神社)が創建されたのに併せ「招魂社(しょうこんしゃ)」が建てられ、後にごこく神社と改称されました。
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小島神社

本神社は小島神社に八幡雄島宮を合祀し、通称鬼道様あるいは鬼道八幡と呼ばれています。小島神社は備前国総社神名帳に記載されている古社128社の一社で、興国4年(1343)神名帳に大井手神と記載されたこともあります。昔、西大川が国富村の方へ流れていた頃、川の中央に小島あり、そこに鎮座していたので(一時、浮洲宮と呼ばれて頃もありました)小島神社と呼ばれています。
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御崎宮

当社は吉備温故によると出雲国日御碕神社から勧請したという。創立年代は明らかではないが、御野の産土神として古くから崇敬せられ、明治6年郷社に列した。元は上道郡竹田地内(現在の岡山市中島)に鎮座していたが、天正年間宇喜多秀家が岡山城城下に引水するため、社地が川敷きになるので現在地に御遷宮された。社殿は嘉永10年に再建した権現造りで、随神門は天保年間の再建である。
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内宮

当社の御祭神である天照大神は、かつて皇居の内にまつられていたが、やがて第10代崇神天皇の御代に皇居と神居とが別けられることになり、まず倭の笠縫邑に遷しまつられた。その後、丹波国(京都)、倭国(奈良)、木国(和歌山)、吉備国(岡山)を経て再び倭国へ、そしてさらに伊賀国(三重)、淡海国(滋賀)、美濃国(岐阜)、尾張国(愛知)を経て第11代垂仁天皇26年(紀元前4年)に伊勢国(三重)へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地として鎮座された。
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伊勢神社

当社は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命が御創建になり、元伊勢として二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上った。
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石門別神社

当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。
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備中国総社宮

総社宮の創建は不明です。平安時代末期、国司が赴任してきた際、備中国中すべての神社の巡拝を行っていました。しかし、巡拝の手間を省く為、国府の近くに備中国内三百二十四社の神社を勧請し、お祀りしました。