中部地方 身曾岐神社 天保5年(1834年)天照太神の神示を得て、太古からの神道の中枢・白川神祇伯王家に伝承された神道の奥義を悉く 相承し、息の行法を以て神道の極意を伝え、天地自然を教典とする生命の信仰ー神道を人間至福の道として再興されました。明治12年(1879年)神道中興の祖として、東京・ 東上野に井上神社として祀られ、その信仰は広く世の人々の 崇敬を得て、今日に至っております。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 三嶋神社 平安の初め此地方が開拓され、村落が生まれつつある頃大同元年(八〇六)伊予国(愛媛県)大三島の大山祇神社より勧請された。富士山の噴火続き田畑山林の荒廃厳しいため、富士即木花咲耶姫命の御怒りを鎮むべく、父神に坐す大山祇命をお迎へし、復興の精神的よりどころとしたと言ふ。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 八幡神社 社地を古くより鎌倉山と云ひ、明らかに中世の土塁(とりで)であり、そこに鎮座する故鎌倉山八幡神社と称した。建保元年(一二一三)和田義盛の乱の功績により、武田信光に波加利本庄(今の初狩地方)が与へられてゐるが、信光が鎌倉に対する忠誠の証として、八幡神社を創建したのではないか。享保十二年の火災にて古器具古文書、棟札等すべて焼失し不詳となる。明治五年村社。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 河口浅間神社 第五十六代・清和天皇の御代、貞観六(西暦八六四)年五月ごろ、富士山が大噴火。富士北麓にあった「剗ノ海」という大きな湖は、大量に流れ出た溶岩によって分割され、現在の精進湖、西湖となりました。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 生出神社 当社の起源は人皇第四二代文武天皇大宝三年、生出山の山嶺に夜々光を放つものあり、里人之を不思議なこととなし登山して其の光を尋ねるに、小岩の表裏に登龍の形あり。時に突然異様な翁あらはれ、「此の石を神宝として諏訪大神を斎奉すれば、必ずや里人に安奉に守護されん」と言傳へると共に其の姿が消えたので、こゝの小池際に社殿を造営、八月一日奉祀する。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 小室浅間神社 富士山から流れ来た剣丸尾溶岩流の突端に御鎮座する当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の勅命による駿河国富士郡大宮の宮建ての後に、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)甲斐国は都留郡古吉田の森の地(現在の下吉田東町辺り)に草創したと伝えられる。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 冨士山小御嶽神社 小御嶽は富士山より先に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山です。その小御嶽の山頂で山岳信仰の霊地である富士山五合目に承平7年(937)に鎮座、創建されたのが冨士山小御嶽神社です。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 若宮八幡宮 当社の鎮まる韮崎はかつて河原部村(かわらべむら)といい、甲州街道の宿駅でした。信州高遠や伊那方面からの伝馬、中馬による穀物や駿州岩渕からの富士川舟運による海産物の取引中継の町としてにぎわっていました。 2024.12.20 中部地方山梨県
中部地方 大井俣窪八幡神社 大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡)は、清和天皇の勅願により貞観元年(859年)2月23日、宇佐神宮(大分県)の八幡三神を音取川(ねとりがわ、今の笛吹川)の中島の地へ勧請し、その地を大井俣といったことから神社の名称を大井俣大明神と称しました。その後、何回か水害で流されて現在の窪の地へ遷座して窪八幡宮となりました。創建当時の建物の規模は不明ですが、現在の社殿は室町初期から末期にかけて再建されたものです。 2024.12.20 中部地方山梨県