中部地方

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御嶽神社

当社は、御嶽山を霊峰と仰ぎ称え、文武天皇の御代大宝2年(702年)信濃国司高 根道基により頂上奥社が創建されました。日本各地の霊山は、御嶽と書いて「みたけ」と呼称していましたが、木曽の御嶽(きそのみたけ)は富士山に次ぐ独立峰としては2番目の高さを誇り、秀麗な霊峰であることから「王の御嶽(おうのみたけ)」と呼ばれ、室町時代の山神名は「王御嶽座王権現」でありました。室町時代中期以降には、「王」の字を略して「御嶽」と書き「おおのたけ」「おのたけ」「おんたけ」と呼ばれるようになりました。
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諏訪大社 下社秋宮

旧中山道と甲州道中(現在の甲州街道)の分岐点という交通の要所に鎮座し、境内の手水からは御神湯が流れています。樹齢八百年ともいわれる「ネイリの杉」は下社秋宮の御神木の一柱です。幣拝殿の見事な彫刻は江戸中期の名匠、立川和四郎富棟によるもので、安永十年(1781)落成しております。幣拝殿、神楽殿ともに国の重要文化財に指定されています。
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穂高神社

穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そして奥宮は穂高連峰の麓の上高地に祀られており、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られています。穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。
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仁科神明宮

当社はむかし皇大神宮御領であった仁科 御厨  の地に 勧請  されたお社です。その創始年代は明らかではありませんが、神宮雑例集によると後冷泉天皇の永正年にはじめて 信濃に御厨が建立されていた記事が見えるので、この時にはすでに建立されていた事のではないかと考えられます。
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平野天満宮

平野天満宮は学問の神様である菅原道真と、武勇・医療・産業・五穀豊穣の神「須佐之男命」が祀られ、文武ともに御神徳のある神社として崇拝されています。奉納神楽として江戸時代から伝承される「天岩戸神楽」は、雌獅子神楽で女らしく膝頭を付け内股で舞うのが特徴で、山中湖村の無形民俗文化財にも指定されています。7
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石割神社

石割神社いしわりじんじゃ住所〒401-0502山梨県南都留郡山中湖村平野1979電話番号FAXHP由緒・由来詳細MAP
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軍刀利神社

創立由緒は不詳であるが、甲斐国志には「軍茶利夜叉明王社棡原村井戸鎮守、永正八年(一五一一)鰐口有銘略之、寛永九壬申(一六三二)年棟札あり。略之、祭礼霜月十九日除地下畑五畝拾八歩、下々畑一畝貳拾歩別当修験大正院」とあり、近世までは修験道軍刀利神社と称するやうになり、軍神として広く郡内一円に講を中心とする信者を持ち、神奈川県、東京多摩地区にまで信者が広がつてゐる。
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新倉富士浅間神社

人皇第四十二代文武天皇の御代慶雲三年(西暦七〇五年)九月九日、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られる。
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刹海神社(せの海神社)

延喜一三年飢饉の折、風雨順止五穀豊穣の為溶岩洞窟の入口に豊玉姫命を勧請、江戸時代に浅間大神を合祀、富士講八海巡りの青木龍神としての霊場であり社殿の側の水を借りて祈願すると必ず降雨ある霊験がある。昔この附近は剗海といふ大海が貞観年間噴火で本栖、精進、西湖と三湖となった。
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冨士御室浅間神社

本宮、里宮の二社で構成されており、現在は河口湖畔の境内地を主とし、向き合う形で建立された両殿に参拝することが出来る。 昭和46年、神社本庁指定の別表社に列せられる。平成23年2月、富士山二合目奥宮境内地、並びに現在の本宮里宮境内地が『史跡富士山』に指定され、平成25年には富士山世界文化遺産構成資産として「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された。
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