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特集 vol.302
合格祈願の前に知っておきたい
学問の神さま菅原道真公を解説!
合格祈願といえば天神さまを祀る天神社・天満宮。御祭神の菅原道真公がなぜ学問の神さまになったのか。その理由を2000文字レポートで徹底解説します!

神童といわれた時代から異例の出世を遂げるまで


突然ですが受験生のみなさん『応天の門』を読んでいますか?真面目な受験生の方々は、見たことも聞いたこともないかもしれませんが、累計部数150万部を超え、2017年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門で新人賞を受賞、2023年には宝塚で舞台化が決定されている名作コミックです。

主人公は、シニカルな天才青年・菅原道真と、都きってのプレイボーイ・在原業平。このふたりがタッグを組んで、京の都で起こる怪事件を解決していくサスペンス仕立ての物語です。監修は、歴史本としては異例の60万部の大ヒットを飛ばした『東大教授がおしえるやばい日本史』の著者、本郷和人先生。史実をもとにストーリーが進行していくので、平安時代の政治、歴史、風俗を学べる格好のテキストなので、休憩時間はスマホゲームではなく『応天の門』をぜひ読んでみてください。


東京・江東区の亀戸天満宮にある5歳の菅公像。

『応天の門』は、道真が文章生だった頃のお話。文章生とは、今でいう大学生のこと。中級貴族の家に生まれた道真は、神童とされるほどの頭脳の持ち主で、18歳で文章生になりました。さらに文学に励んで超難関の国家試験である方略試に26歳の若さで合格。学者の最高位文章博士にもなり、政治にも才能を発揮したため宇多天皇に信頼され、55歳で右大臣になるという家柄を超えた出世を遂げたのです。


藤原時平の暗躍で人生の絶頂期に転落


ここまでが、道真の黄金時代。その先は、よく知られるように左大臣藤原時平の政略で罪をきせられてしまいます。宇多上皇は急を聞いて内裏に駆けつけますが入れてもらえず、ほかにこの処遇に反対する声も上がらなかったといいます。いつの間にか朝廷で四面楚歌になっていた道真に、抗う術なかったのでしょう。大宰府に突如左遷されてしまいます。
家族とも十分な別れが許されないほどの急な出立に残したのが、こちらの切なくも美しい歌。

東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ

春風が吹いたら匂いを(太宰府へ)送っておくれ、梅の花よ。主人(道真)がいないからといって春を忘れてはならないよ


梅を愛した道真公のために天神社・天満宮には梅が多く植樹されています。

『応天の門』の道真ファンとしては、若い頃からうんざりしていた政界の魑魅魍魎どもに別れを告げられてせいせいした、と書に親しみマイペースに暮らしを楽しむ結果になってほしいところですが、実際の太宰府では衣食にことかくほど苦しい厳しい謹慎生活だったようです。都の暮らしへの恋しさや、貶められた悔しさもあったのでしょうか。延喜3年(903年)わずか2年で無念の生涯を閉じることになりました。


死後の道真は
怨霊→雷神→天神さま→学問の神さまに


政治家時代は、困窮していた讃岐国で庶民の暮らしに向き合って経済を立て直したり、藤原基経が言いがかりをつけて橘広相(たちばなのひろみ)を学会から追い出そうとした阿衡事件で広相を救ったり、誠実な人柄が史実として残されています。そんな人物を陥れたことに、心当たりのある人は暗い罪悪感を、ない人は「あんなに良い人に罪を着せた人たちには天罰が当たればいいのに」と密かに思っていたのかもしれません。

そんななかで、道真が神さまとして祀られるきっかけになる恐ろしい事件が次々とおこります。道真がこの世を去って3年後。道真の悪評を朝廷に報告し、道真の後任として右大臣になった藤原定国が怪死。一緒に朝廷に報告し、宇多上皇を内裏に入れなかった藤原菅根も2年後に雷に打たれて落命、翌年には京で権勢を誇っていた時平が39歳で突然死。さらに3年後に時平が期待をかけていた皇太子・保明親王も21歳の若さでこの世を去り、時平と親しい源光は狩猟中に池に落ちて溺死しています。

ここに記した以外にも数々の怪異や時平派の死亡が伝えられており、追い打ちをかけるように疫病も蔓延。人々は強い恨みを抱いて死んだ道真が怨霊となり祟っていると噂するようになっていました。

そして、道真がすさまじい力をもった怨霊だと人々に決定づけたのが、延長8(930)年に発生した清涼殿落雷事件。内裏に落雷があり時平派のひとり藤原清貫が即死したほか多数の死傷者が出ました。醍醐天皇も「道真の祟りじゃ!」とショックを受け、事件の3ヶ月後病に倒れそのまま崩御されました。
鬼も怨霊も実在すると信じられていた時代。人々は震え上がり、道真は雷神(=天神)と恐れられるようになります。
祟を鎮めるため道真の霊が北野天満宮(きたのてんまんぐう)に祀られたのは、醍醐天皇の崩御17年後の天暦元年(947年)。道真が没してから約40年の月日が経っていました。


天神信仰発祥の地となった北野天満宮。

北野天満宮は、学問の家系である菅原氏が管理し、数少ない道真の味方だった藤原忠平の息子、師輔が神殿を増築。祟を恐れていた朝廷の庇護を受けたこともあり繁栄していくことになります。永延元年(987)には一條天皇が「北野天満大自在天神」の御神号を授け、“天神さま“として祀られるように。
祟りがすっかりおさまった鎌倉時代には、怨霊としての側面よりも学問や詩歌の側面がクローズアップされ、江戸時代には祟りをおこす天神さまではなく、学問の神さまとして崇敬を集めるようになったのです。

現在の天神社・天満宮は全国に約1万2000社。近所の天神さんに参拝できるようになったのは、怨霊としてすさまじいパワーを発揮したという伝説のおかげ。
学問の神さまとして崇敬されている現在も同様に、強い霊威で学業成就に導いてくれるに違いありません。