1. 【長野・千曲市/武水別神社】
因縁のライバル対決、はじまりの地
2. 【長野・長野市/川中島古戦場八幡社】
伝説の激戦の舞台
3. 【長野・上田市/生島足島神社】
武田家臣団の起請文が多数残る
4. まだある!戦国武将ゆかりの神社
越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄といえば、戦国屈指のライバル武将として有名です。両者のおもな戦場は川中島。長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯です。川中島とその周辺地域は、古くから越後・甲斐・上野を結ぶ交通の要でした。犀川をこえて越後へ攻め入りたい武田信玄にとっても、関東への勢力拡大をはかりたい上杉謙信にとっても重要な場所だったため、12年にも及ぶ5回の合戦が繰り広げられることとなったのです。
その最初の交戦は天文22年(1553年)。初対決とはいえ、大規模な衝突ではなかったといいます。それというのも、このとき武田信玄と争っていたのは村上義清。上杉謙信は村上義清の援軍として動いたに過ぎなかったのです。
この戦の際に、武田軍の陣があった場所といわれているのが、JR稲荷山駅から車で10分、千曲市にある武水別神社(たけみずわけじんじゃ)付近です。神社の境内には、川中島の戦い初戦の地であることを示す記念碑もあります。
武水別神社の主祭神は武水別大神ですが、「やはたの八幡宮」とも呼ばれ、八幡神もお祀りしています。八幡神は清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神さまとして、崇敬を集めていた神さまです。この神社には、平安時代末期の武将・木曾義仲が戦勝祈願し、見事勝利を納めたというエピソードも残っており、戦国時代から江戸時代にかけて、この地方随一の八幡宮として諸武将の崇敬を集めていました。上杉謙信もそのひとり。武田信玄の討滅を願う願文を納めています。
5回の交戦のなかでもいちばんの激戦となったのが4回目、永禄4年(1561年)9月10日の対戦です。武田信玄の軍師として知られ、「啄木鳥(きつつき)戦法」を考案したといわれている山本勘助が討ち死にしたのも、この戦いだと伝えられています。啄木鳥戦法とは、軍を引くと見せかけて敵を誘い出し、背後から攻撃を仕掛けるというもの。武田軍はこの戦いでも啄木鳥戦法をとりましたが、上杉軍に見破られて失敗してしまいました。
戦いの跡地は、現在は緑豊かな公園になっています。JR長野駅からバスで約20分の、川中島古戦場史跡公園です。
隣接する川中島古戦場八幡社(かわなかじまこせんじょうはちまんしゃ)は、戦の際に武田軍の本陣だったとされる場所にあります。激しい戦いにまつわるエピソードの残るスポットも満載。乱戦の最中には、手薄になった武田信玄の本陣に、上杉謙信がただ1騎で斬り込みをかけた、という伝説もあります。馬に乗った上杉謙信が、床机に座っていた武田信玄に3度にわたって斬りかかったものの、武田信玄は軍配団扇でこれを防いだと伝えられています。境内にはこの伝説をモチーフにした「一騎討ちの像」があります。一騎討ちが本当にあったのか否かは、今となってはわかりませんが、大将同士が一騎打ちをしたという逸話から、拮抗した戦だったことが伺えますね。
起請文とは、契約を破らないことを神仏に誓う文書のこと。「神に誓って〜」と約束するだけでなく、破った場合には神仏による罰を受けるという文言が最後に入っているのが特徴です。
武田信玄が家臣団に書かせた大量の起請文が残る神社があります。上田電鉄下之郷駅から徒歩数分のところにある、生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)です。
この神社には、武田信玄が深く信仰していた諏訪神・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)にまつわる伝承があります。建御名方富命が諏訪の地を目指す際、この地に立ち寄り、主祭神の生島大神(いくしまのおおかみ)と足島大神(たるしまのおおかみ)に米粥を煮て献じたというものです。このエピソードをモチーフにした神事「御籠祭」が今も行われています。
生島足島神社には武田家臣団の起請文が大量に残っています。その数なんと83通! ほとんどが永禄10年(1567年)8月7日、8日に書かれたものです。同時に奉納された起請文が1か所にこれだけ多数残っていることは極めて稀だそう。
この時期、武田信玄と当時嫡子だった義信との間で諍いが起きていました。武田信玄は自身が父・信虎を追いやって家督を継いだため、息子・義信が反旗を翻すことも警戒していたのでしょう。
起請文の原本は見られませんが、同じ大きさで複製されたものが、境内にある歌舞伎舞台の中に展示されています。多くの家臣たちをまとめようと苦心していたと思うと、名将・武田信玄がぐっと身近に感じられそうです。